昭和五十六年五月六日 朝の御理解
御理解第九十四節「信者に不同の扱いをすな。物を余計に持って来るとそれを大切にするような事ではならぬ。信心の篤いのが真の信者じゃ。」
信心の篤いのが真の信者じゃと、熱心にお参りをする。熱心に教えを頂く。それだけで真の信者、それだけで信心が手篤いとは言えない。今日の御理解で頂くとまあ物を沢山持って来る信者は大切にする。でない者は大切にしないというのじゃなくて、結局神の氏子としての一様な思いを持たなければならないという事を、まあこれを事柄の上におきましても、云うなら大変な問題と思うから、一生懸命にお参りをする。たった此の位の事と思うから軽く拝んどくといったような事ではならんという事も言えます。ですからそりゃ軽い事と思い、重い事と思う事も云わば一様に神様の御働きと頂き、御事柄として頂くという事。そういう頂き方が出来てこそ真の信心という事が言えるのじゃないでしょうか。それを体得していく事に精進する人を真の信者というのじゃないだろうかと。
信心の篤いのが真の信者じゃとおっしゃるのはそういう事だと思う。まあほんとは熱心に参るとか、拝むという人は沢山ありますけれども、云うならば兎に角大きい事も小さい事も神様のおかげを頂かなければ出来る事ではないのですから、ちょっとした事と思う事はざっと拝む、でない事は念入れて拝む。だから念入れて拝むという事では本当の、云わば信心が手篤いとは言えない。
いわゆる合楽理念で申します一切が神様の御働きとしてみるのです。云うならば例えば器量がよかろうが悪かろうが結局神の氏子に間違いないという一様な頂き方という事をまあ私は事柄で聞いて頂いとるわけですけれどもどういう事柄であっても神様のお働きと云うならば頂くという事なんです。
昨日は壮年会でございましたから、皆さんいろいろなお話しを聞かせてもろうたが、野村さんの発表の中に、もう確かに此の頃そ御理解を頂けば頂く程又実際の問題なら問題に取り組んでみてです、確かに人間の知恵やら力ではどうにも出来ない、神様もう貴方のおかげを頂かなければ出来る事ではない事が分かって来た。分かってきたけれどもいよいよ仕事をやってみて、振り返ってみると自分の我力でやっとったなあと思うという発表がございました。
だから分かっとるだけでは出来ん。そしたら神様、その発表なさっとる時に私が頂くのは結局分かっちゃおるんです。云うなら、障子一重がままならん人の身であるという事が分かっておるんです。けれども実際仕事をしてみて、一日を振り返ってみると、はあ自分の我力でやっぱやっとったなあというふうに、どうにもしょうんない。神様のおかげを頂かなければ何一事でも出来ない、分かっておりながら実感としてはやはり今日も私が頑張ったという事になっておる。それを聞かせて頂いておったら、『分かっておるけれどもそうできない。そこにめぐりがあるんだと頂いたんです。だから本当の事が分かっておる事に対してめぐりがこう分からせまいとするような働きが邪魔に入る、邪魔になってくるんです。そこで云うならばもうこりゃ野村さんの生き方でもありますし、それを続けておいでられさえすればいよいよ我無力の実感と同時に障子一重がままならぬ人の身という事が分かっていく事がそれが自分の血に肉になったときに初めて体験による云うならば分かったであり、実験によってそれをその教えが血に肉になったという事が言えるのですからね。
一ぺんにそれが分かっからおかげ頂くのじゃない、分かったものが血に肉になる。そしてなら昨日のその悩みを言っておられるように、本当に神様のおかげを頂かなきゃ出来る事じゃないと分かっておりながら、なら一つの仕事をさして頂いてまあ一日を終わった時に、はああそこも自分の我欲でやったな、我情でやったなあ、人間心であったなあというものにその触れ時に、まあ教えが血に肉になるという事の難しさを云わば発表されたわけでしょうけれども。
日田の堀尾先生のお話しをそれに対してさして頂いた事でしたけれども、日田の堀尾先生御信心は“障子一重がままならぬ人の身”というみ教えに徹しられたという事ですね。もう本当に障子一重がままならない人の身である。それが分かっただけではなくて自分のものになった時に、初めてあの神様のおかげを頂く。先生の場合はもう師匠安武松太郎のおかげを頂かなければ、の、力によらなければ日田教会は立ち行かんという実感が生まれてきた。そのエピソードのようなお話しがありますが、あの立派な御普請が出来た。ところが、お結界が甘木の方にお尻を向けなければならない様に出来ておったというんです。さあそれからもうそれこそ一切が師匠のおかげで師匠のおかげでと言うとるのに、日々親先生に尻向けて御用しとるという事が、だからここの御建築をし直そうかとまで思われたと、何日も何日も悩まれた。そして思われた事が今の障子一重がままならぬ人の身、私、安武いや保晴とおっしゃいましたかね、によって出来る事はないけれども、親がいつも後から親がバック、親がこう抱えて支えておってくれるんだという心が開けたち。そこからあのお結界はそのまま使われるようになったという。そういうね、もうあの所に結局障子一重がままならぬ。自分の無力というものをここにはっきり分からせて頂きながらも、その分からない。師匠の云うなら支えを受けなければ出来る事ではない。自分には何一つ出来ないという事がいよいよ克明にというかね、本当の意味に於いての障子一重がままならぬ人の身である事が分かった、と言われております。
それでも一つ分かったからそれでおかげ頂くという事じゃない。今日も成り行きを大切にするという事、大切にする事の中には、損になる事もありゃ儲かる事もあるのだ。、だから損になった時でも、云うならば心から神様の御働きとして、云うならシルクロードの道には怖い所もありゃ、面白い所もある。いろんな所があるんだ。けれどそこをなら柔らかい喜ぶ心で通るというのですから、やっぱ簡単ちゅう事ではない。はあもう本当におかげ頂いた。思いがけないおかげを頂いたという時には、お繰り合わせ頂いて有り難うご座居ます、だけれども、反対に損をした時なんかはお繰り合わせどころではない。お願いしとったのにと心には思う。それでもはあそうじゃない。あれもおかげ、これもおかげだと一様にそれを有り難いで受けていける時に、真の信心が分かったのであり、真の信者だとはそういう事をいうのじゃなかろうか。ただ熱心に参りよるから、拝みよるからじゃないです。そういうところが、例えば云うなら我情が出てまいりましてお願いしとったけども損をしたという時に、自分の我欲の強い事に気付かせて頂いてそこん所を云うならば、儲かった事も損した事も、神様の御働きであるというその御働きというふうに頂けた時に初めて真の信心が身に付いてきたという事になるのじゃないでしょうかね。だから真の信心が身に付いてくる、そういう、云うなら人を真の信者だ、又の御教えの中にも、あれもおかげであった、これもおかげであったと分かるようになると、本当の信者じゃとこうおっしゃっております。そこん所です。だからあれもこれも一様におかげと頂かれるその心こそが大切なのである。
儲かったから損したから、これは小さい問題だから大きい問題だからといったようなのではなくて、もうその細かい、小さい事一つだって貴方のおかげを頂かねば出来る事ではないのですから。
私は外出する時、こりゃ親教会に参拝させて頂く時でも必ず御祈念をして、合楽から善導寺までの間の事をもうこれを願わずにはとても行けないです。なら東京までも行くから本気で願うというのではなくて、東京へ行く時でも善導寺にお参りする時でも同じ思いで道中の事を願います。私の信心がははあこれは本当なものになってきたなあ、又信者の中にちょっと久留米まで行きますからちもう立ちながらんごつしてから、そのお届けしていく人があります。そういう時程私はあの神様にお取り次ぎを、云うならばその人の欠けておる所をお詫びしてお願いをします。簡単な事だから、これは重大なことだからと区別をしてはならない。区別をせんで良いような心掛けがいると同時にそういう心になった時にはじめて真の信心が分かっていきよるという事が言えるのじゃないでしょうかね。
どうぞ
ですから今言う、そのそしてこうしてお話しを聞くから分かるでしょう。分かるけども先生のおっしゃる事が分かるけども、実際あの日々の生活の中にみるとやっぱ、軽うみたり重くみたりしたがるわけですよ。それはなら貴方の我情我欲が、云うならば貴方のめぐりがそうさせておるんだと、だからそういう時に苦しい思いをする時になら今こそめぐりのお取り払いを頂いておるというようにめぐりが取り払われてまいりまして、もう本当に有り難い心になれた時に、教えがそのまま入ってくるというのじゃないでしょうか。
どうぞ。